日本のミスターロックンロール、鮎川誠が死んだ。
おれたちの兄さんだったアユが死んだってことは、いざ起こってみるとロックンロール界の大事件だった。
あり得ない数の人がとても悲しんで、
「ロック葬」には絶対に入りきらない数の革ジャンを着た人たちが集まった。
あれ、ロックンロールってなくなっちゃうんじゃない?
そんなことを初めて感じた。
10代の終わり頃、サンハウスの「有頂天」のCDを聴いたおれは、「こんなヘヴィなブルーズを日本語でやってるバンドがいたのか!」って思った。
ちょうどおれのばあちゃんと同い年くらいの彼らは、今から50年くらい前に博多でこんなにゴキゲンでいて危なっかしいブルーズをやってたのだ。
おれが唯一アユを生で体験したのは
2013年夏の代々木公園で、シーナアンドザロケッツだった。
シーナが亡くなる半年くらい前。
今思えば、その時すでに体調は悪かったのかもしれない。
レコードで聴いてたシーナアンドザロケッツのロネッツみたいな曲をニューウェーブサウンドで包んだようなポップス、なイメージはステージで観たものは全然違った。
シーナはこれぞロックンロールのディーバって具合にケバケバしくぶっ飛んでいて、ティナターナーばりの存在感だったし、
その横でアンプフルテンの爆音ギターを鳴らすゴキゲンな男。最高だ。
ロックンロールの擬人化みたいな2人。
内容の伴ったシドアンドナンシーてな感じ。
今でこその世代こそが「真っ正直にロックンロールの洗礼を受けた熱い世代」って知っているけど、当時60歳を超えた人がこんなにも「なりふり構わない」ことがあるのか、って思った。
ちょうどその数ヶ月後に、ポールマッカートニー、ローリングストーンズと、70代でバリバリにやっているロックンローラーを生で観て、
いよいよおれの中で年齢はただの数字になっちゃったんだけど。
アユは明らかに「地図の外」にいる人。
これは最近、甲本ヒロトが歌ってた言葉だけど、(ヒロトこそどんどん地図の外に行っちゃってる)
社会の前に世界、で生きているような感じがする。
そんなことは子供の頃から感覚として当たり前だと思っていたけど、
大人みたいなやつになって世の中で人と関わると、ほとんどの人が社会で生きているような感じがして、なんか思ってたよりつまらない、と思ってしまった。
みんな年齢や性別、立場で自分をやっている感じがする。
20代のおれにおっさんやおばさんは、
「若いなあ。羨ましい。」とか
「その歳ならまだなんだってできるわよ」
みたいなめちゃくちゃくだらない言葉をほぼ全員がかけてくる。
「おじさん」という役職についてそれを演じてるみたいだ。
「おれももう歳だから、」とかいうやつ、
おれが子供の頃、親戚や周りの大人はそんなテンションの人はいなかった。
年齢や立場がないような人なら誰とでも飲み仲間になれるけど、
ある人とは仲良くなれない気がする。
「おっさん」を演じてくるってことは、どこかおれも「若者」として見られていて、それを演じなければ会話が噛み合わない。
「私も歳だから、、、」とか言われたら「そんなことないよ」とか言う典型的な会話はおれにはできないし、本人がいうならそうなんでしょうね、になってしまう。
だから30代とかでも自ら歳に合わせていってる人は、おじさん、おばさんって感じがするし、
80歳でも、「ただの自分」をやっている人は兄さん、姉さんと呼びたくなる。
話は飛んだけど、おれのばあちゃんの世代であるアユとシーナはまさにおれの兄さん、姉さんと呼ぶのにぴったりだった。
アユは50年以上前から死ぬまで、
おんなじような3コードのような曲をおんなじような格好でおんなじように歌ってた。(おいクラプトン聞いてるか)
70過ぎて、あんなにバカみたいな歌い方(ブルーズはそれがめちゃくちゃ大事)でガッシャガシャにギターを弾く。
全く進歩がない。進歩がないってなんて素晴らしいことなんだろう。
おれも立派になったり進歩しないように頑張ろう。